柿原講師のblog

ネアグロッサの柿原啓志(かきはらひろし)講師のブログです。 ドイツ語とドイツに関する様々な記事をお届けします。

柿原 啓志 講師 Herr Hiroshi Kakihara

文学部ドイツ文学科を卒業。旧西ドイツのゲッティンゲン大学哲学部へ遊学、ドイツ文学と教育学を専攻。日本での教職勤務の後、1992~2015年までデュッセルドルフ日本人学校でドイツ語の指導に携わりました。故コール元首相の訪日時にはハンネロール夫人が来校されドイツ語授業を参観、又、オーストリア放送局の教育ドキュメンタリー番組の取材を受けて公開授業を実施、ケーラー元大統領夫妻の来校に際してはエヴァ夫人がドイツ語授業を参観、又、高円宮妃久子さまが来校された折にも授業を参観いただきました。学ばれる方々への気配りや学習意欲を高揚させることは、指導者の必定と考えております。教職に就く以前は、ドイツ系の総合化学企業に約5年間勤務、その後、私立の中・高・大学にて10年近く教鞭を執っておりました。
取得の教諭免許状:小学校教諭2級普通免許状、中学校教諭1級普通免許状(ドイツ語)、高等学校教諭2級普通免許状(ドイツ語)。元日本独文学会会員。渡独前は、文部省(現 文部・科学省)の大学入試センター試験等連絡協議会試験問題検討部会委員を委嘱され、これを務めておりました。
目下のところ、百有余年ほど前の話になりますが、心臓のペースメーカーの生みの親といわれる田原淳博士や赤痢菌の発見で知られる志賀潔博士と知己の仲であり、又、医者であり、文豪としても知られる森鴎外の後輩でもあった曾祖父の小久保惠作が、プロイセン帝国のゲッティンゲン大学に医学生として留学していた当時の実録資料の編纂やドイツ語の論文の訳出作業、又、先頃、その存在が確認された、逸見宮吉氏によって編纂され、「小久保惠作博士の経歴」の書名で国立国会図書館に秘蔵されていた曾祖父の自伝的な著書を現代表現へ書き起こすなどの作業に従事しております。

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ドイツ文化

日本人はオブラート依存症、ドイツ人は批判大好き国民

本文は、 私柿原啓志の娘、柿原梨那が、財団法人日本独文学会 ドイツ語学文学振興会が定期発刊する会報誌『ひろの』2006年 第46号に寄稿したものです。



私のドイツ語


私にとってドイツ語とは、母国語でないことは確かなのだが、恐らくその母国語に限りなく近い存在であるのかも知れない。

私は幼稚園まで日本で育った。 そこで父の仕事の関係から、突然に家族揃ってのドイツ行きが決まったのだ。当時6歳になったばかりの私は、その時の心境については覚えていない。 特に悩んだ覚えもない。 恐らく私は日本を離れること、また全く知らない国でこれから生活するということを少しも認識していなかったのだろう。それは、私が幼かったからでもあるが、性格的にあまり深く考え込む質ではなかったからだと思う。


このような性格であって、ある意味では海外生活において随分救われたのかもしれない。 勿論、実際にドイツへ行き、現地の小学校に通いはじめた時は戸惑いも多かった。 当然のことだが、まず一番困ったのは言葉である。その当時私が知っていたドイツ語といえば、せいぜい親に教えてもらっていた „schönes Wetter heute!“と„Guten Tag! “の6歳児にはあまり便利とはいえない二つの表現であった。 周りの子ども達から話し掛けられても、答えることはおろか、理解することもできなかった。


しかし、私は本当に素晴らしい担任の先生、そして優しい友達に恵まれ、その人達の思いやりと忍耐力のお陰で、徐々にドイツ語の基盤をつくり上げていけたのだ。また、当時は現地校に通う日本人も少なく、私の小学校にも頼れる日本人は他にはいなかったため、私は自然にドイツ人に囲まれていることに慣れ、また友達も増えていった。 小学校の3年間はドイツ語に集中する生活であったため、日本人の友達ができよう筈もなく、日本語で話す機会も家にいる時だけであった。


つまり、私のドイツ語はある意味では母国語である日本語を犠牲にして上達したといっても決して過言ではないだろう。自分の容姿が周りのドイツの子ども達とは違うことには気づいていたが、子どもだったこともあり、矢張りその点も特に深くは考えず、コンプレックスなどを感じることなどもなかった。 このように何一つ不自由のない生活を私はドイツで送ることができたのである。


ところで、自分について述べるだけではあまり面白くないので、私が感じ得るドイツ人と日本人の最も異なる面について述べてみたい。ドイツでは日本とはまったく逆で、幼い頃から自分の意見を主張する教育を受ける。 それができないと、学校生活ばかりでなく友達関係においても非常に困るのだ。 ともかく、日本人とドイツ人の社会性の最大の違いはその点にあるのだろう。


これに対して日本では逆で、自分の意見をあまり主張しないほうが人間関係を円滑に運べるという傾向があるように思う。その日本とドイツのメンタリティーの違いは再び日本で暮らすようになって初めて実感した。 ドイツはまさしく「批判」の国と言える。 今年のサッカーのW杯をテレビで観戦して改めて感じたことを一例として挙げてみたい。それは、日本のサッカー解説者とドイツの解説者の違いである。


とにかくドイツのコメンテーターは選手に対して容赦なく厳しい。 素人目ではあるが、比較的に良いプレーをみせているにも拘わらず、ドイツ人の場合は試合中も試合後もおよそ選手を褒めることは日本に比べると圧倒的に少ない。 どんなに圧勝したとしても、試合後には必ず批判の声が聞こえる。 逆に日本人は批判を好まず、「褒め」、「慰め」と「励まし」に関する達人のようである。 どんな悲惨なプレーをしたとしても、「今のはしょうがないですね~」などと、解説者はフォローすることに余念がない。 そのようなコメントを聞く度に私は、これがドイツのチームであったらただじゃ済まないだろう、と思わずにはいられない。 実際、私も友人に日本チームの弱さを指摘し、予選での敗退を予想した時、冗談ではあるが、「非国民」と叱られてしまった。


したがって、日本人はオブラート依存症であり、ドイツ人は批判大好き国民であるという結論に私はたどり着いたのである。両国民ともに実に極端であり、かつ対照的なのだ。とはいうものの、この二つの国に深い絆と関係を持つことができる私は限りなく幸せである。私はとにかくドイツが大好きである。ドイツは私に染みついているといっても良いほどだ。私にとってのドイツ語とは、考えや、気持ち、とにかく「自分の姿」を一番明確に表現できる言葉なのである。


Logo der Veranstaltung "Der Demographische Wandel: Japan und Deutschland im Vergleich"| Foto: KAS

 柿原梨那 略歴

1986年東京生まれ。1992年デュッセルドルフに移住。2005年6月アビトゥアを取得後、ギムナジウム卒業。2005年8月に帰国。2006年4月慶応義塾大学法学部法律学科に入学。(2005年度独検1級1位合格者) 現在は、バイエル・ジャパン・ホールディングス(株)東京本部に勤務。




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日本の近代化の手本となったドイツ

皆さんの中には、NHKのテレビで放映された大河ドラマ『新撰組』、『篤姫』、或いは『龍馬伝』、最近では『花燃ゆ』などといった江戸末期から安政、慶応、明治の時代を舞台とする歴史ドラマをご覧になられた方も多いと思う。斯くいう私も実は、歴史ドラマの大ファンがゆえに、例に違わず毎週の日曜日を楽しみに待つ一人である。

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atuhime

http://www.nhk-p.co.jp/common/event/main/hanamoyu_remain.jpg

さて、これらの劇中に描写される時代の背景であるが、今より遡ること僅か
170年ほど前のこと、すなわち二百有余年もの長きに亘って我が国を支配してきた徳川幕府による武家社会に別れを告げ、王政復古の大号令のもとに岩倉具視をはじめとする天皇の重臣であった当時の公家たちを擁し、薩摩藩と長州藩の連合軍が大政奉還を大義名分に倒幕と維新を目指して、遂に錦の御旗を掲げんと最後の戦いに挑む、元号でいえば慶応年から明治年へと移りゆく頃である。

何れの劇にも、我が国を想い、その行く末を憂う数多くの有能な先人たちが命を賭して戦った様子が鮮明に描かれている。その後の経緯は史実が私たちに伝えている通りであって、薩摩、長州の両藩を中心に、国の政権を担うこととなった明治の元勲たちは、富国強兵の旗印のもとに、こぞって西欧諸国へ赴き、政治をはじめ、法律、哲学、文学、教育、軍事、社会学、経済学、心理学、理学、物理学、鉱山学、薬学、医学など、ありとあらゆる分野の先進的知識や学問を学ぶことになる。

当時のドイツといえば、嘗てカール大帝
(Karl der Größe)が築き上げたゲルマン支配による神聖ローマ・ドイツ帝国(Das Heilige Römische Reich Deutscher Nation、いわゆるDas Erste Reich)の再来を願い、小国でありながらも次第に強国へと変貌を遂げつつあったプロイセンが数々のゲルマンの小国を統治し、遂には鉄血宰相で知られる政治家オットー・ビスマルク(Otto von Bismarck)を擁し、プロイセン国Preußen(Das Zweite Reich)を樹立、漸くしてドイツ統一(Vereinigung von Dertscher Nation)が果たされた頃である。


Karl der Große führte ein eindrucksvolles Leben. Das Gemälde (Ausschnitt) zeigt den Kaiser mit einem Modell des Aachener Doms
カール大帝

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Bundesarchiv_Bild_183-R68588,_Otto_von_Bismarck.jpg
オットー・ビスマルク


その頃、北白川宮能久親王をはじめ、伊藤博文、西郷従道、品川弥二郎、青木周蔵、山脇 玄、平田東助、山県有朋、桂太郎、松方正義、西 周、森 有礼、加藤弘之などの蒼々たる明治新政府の賢人たちが描き出した国策の中で殊に重要視されたのは、軍事力の整備と増強、法制度と教育制度の確立であった。

当時、啓蒙専制君主であったフリードリィッヒ二世が率いるプロイセンの軍事制度と国政、そして徹底した教育の実情を目の当たりにした明治政府から派遣された留学生たちは、祖国日本の近代化へ向けて、正しくこのプロイセンの流儀を範となし、これらを取り入れるべく、改革にのりだしたのである。これを契機として、日独の両国間には揺るぎない絆ができあがったわけだが、その後、数々の激動の時を経た今もなお、我が国とドイツの間には友好関係が維持されていることは周知の通りである。


岩倉使節団



1875年頃のベルリンの日本人留学生

押し寄せる欧米の近代化の波に乗り遅れまいと、我が国は倒幕以降、その悉くを西欧、殊にドイツの土壌で育まれた学問や文化にこそ、その知識の源を求めたわけである。縁あってここドイツに暮らす私たちも、嘗て我が国の近代化のためにドイツに学んだ数々の先達たちを偲びつつ、時に彼らの成し遂げたことに想いを馳せてみるのも大切ではなかろうか。

僅か一世紀半の間に近代的な先進国とまで呼ばれるほどに発展を遂げた我が国ではあるが、悲しいかな、温故知新など何処吹く風、「熱しやすく冷め易い」などと揶揄されるが如く、諸外国からは真しやかに囁かれる有様である。過去に悲惨な戦争を体験し、そこから立ち上がった先人たちは、高度経済成長時代を築き上げもした。だが『追いつき、追い越せ』に奔走する余り、何処かに『心』を置き忘れてしまった嫌いがないでもない。

現在ある私たちの祖国日本の近代化を生み出す手立てとなった原点が、とどのつまりは祖国から遙か遠く離れた西欧の地、ここドイツであったことを真摯に受け止めて、今一度この事実を再認識する時が訪れているように思うのである。

(※人名は旧制の独逸学協会学校
(現 獨協学園) 100年史 編纂資料より出典)


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